昭和四十五年三月三十一日 夜の御祈念
私は今朝初めて聞かせて頂いたんですけれども、おー、彗星が出ておるという事。今朝初めて私は聞いたんです、ね。朝参りをして来る方達は、こう、こちらの東側の方へ出て見ておりました。例えば子供の頃からあのいわゆる箒星ですね、箒星が出る時には何かその、まぁ地球上に変わった事が起こってくると。まぁ戦争が起こってきたり何か不幸な事が起こってくるといったような風にまぁ聞いておりましたが。今日あー、それをまるっきり前書きするようにあのー、飛行機の乗っ取り事件がございましたですねぇ。もーうテレビというテレビで、ラジオというラジオともーうその事で持ち切っているといった様な、まぁ日本中どころか世界中が騒いでるといった様な感じですよねぇ。もーう本当に、しかしまぁこんな時代ですからね。昔はやっぱりその山賊とか海賊とかおったんですから。もうこういう時代ですから空賊(笑)っておってもね、まぁそんな不思議はないのです。けれども本当に今大変な事だったと思いますねぇ。まぁ例え良き結果になったか私、いー、一番最後の所聞いておりませんけれども。丁度私が、おー、奉仕に出ろうと思いよる所にそのニュースが報道されておりました。丁度、おー、福岡空港から、あー、おそらく北鮮の方へだろう飛び立って行ったという所で、でした。しかしそげな、そういう事件がね目の前でこうやって見れれる様な時代、大変な時代ですよねぇ。まぁ本当にその百何十人かの乗り組み員の方達が、あー、乗客、あのー、お客さん達が無事にどうでも一つ円満におかげを頂いて帰って来てもらわにゃならんとまぁ祈るよる他ありませんですけれども。
とにかく、そのー、世の中が、そのー、どのような風に例えばよし変わりましてもですね、えー、その中に私は本当に人間が幸福になっていけれる道という事をですね、いよいよ例えばこういう様な様々な事が、あー、聞かれたり起こったり致しますにつけてもね、いよいよどのような中にあっても人間が、あー、落ち着いて、しかも、おー、お縋りする何者かを心にしっかりいつも持っておかなければならない。同時にそこの先には安心のおかげの頂けれるような、ね。おかげを頂かなきゃならない。私は本当に、いー、百何十人の方達がまぁ飛行機の中に閉じ込められてね、おそらく、まさ、あーそのー、宗教の有る無しにかかわらず何者かにやはり縋らなければおられない真剣なものを感じておられるだろうと。そういう時にね、私共が生き生きした信心を例えばいた、どのような事になっても驚いてはならんぞと仰る様な驚かんですむね、信心を頂いとかなければいけませんよね。こういう時代になりましたからね、いつどういう様な事が起こってくるとも限らんのですから。ね。ですから本当に人事じゃあない。私共の上にそれがいつどのような事が起きてまいりましても。
もーう私は二十年前に、あるまぁ大変な事を頂いた事がございますが、そのような事がひょっとして実現するのでは、起こってくるのではなかろうかとすら思うような感じですねぇ。今日私はそんな感じが致しました。けれどもそれはそういうどういう様な事になりましてもね、私共はそこからね人間の幸福をはっきり、いー、頂き止めていけれるだけの宗教、ね。そういう信心を頂いとかなければいけませんよ。果たしてそういう例えば、あー、場合にですね、それに耐えうる宗教が果たして今あるだろうか。無いです。無いと思う私は。まぁいうなら合楽で私が言っておる、その本当にいよいよ和賀心時代にお互いが突入したとして私共自身がね、その和賀心をいよいよ究めていこうといった様な信心より他にね、えー、それに例えば対する信心とは在り得ないんじゃないかと。ね。どうでも一つそういう中にあっても一つ本当に和賀心が使えれる程しの和賀心をね、いよいよ究めておかなければならない。日々の様々な、あー、じ、事柄の中からね、それをいわゆる日々実証的にですね、なるほど和賀心というものはこのようなおかげに成り頂けれるんだというね、実証をふんまえて日々信心の稽古をしなければならない、そういう時代を感じますね。
今日ね、丁度私は今日二時から奉仕させてえー、午前中髭剃りであれしておりました、あの、御無礼しておりましたから昼から奉仕させて頂いた。えー、ここ、ここ二、三日昨日一昨日からでしょうか。そこの合楽食堂のあのー下の方の博之さんちゅうのが、熊本の左官の弟子に行ってます。おとなしい子ですけれど。どういう都合だったですか、この頃、おーそのー、こちらへその出て来とるわけです。ほであちらにも居ないこちらにも居ないのであちらでも大変心配されて、ところが夕べ向こうから電話がかかって来てまぁ心配するような事で出とるのじゃないからと言うて、えー、昨日一昨日からかこちら、こちらへ帰って来とりました。それでまぁ、あー、あちらへまだ、そのー、弟子に行ってまだまだこれで良いて事じゃないのですから、帰らならんような帰りにくいような状態になっとりましたのを、ま、きの、昨夜から今日にかけて若先生がまぁ懇々と色んな事をー、お話を頂いてる。段々腹が決まっておったようです。
ほんで今日も丁度私がここへ座っておりましたら、あのーおー、ここへ出て参りましてね、丁度ここへ私があのー、中村君がここへ出てくれば出てくる前に、私はここで御祈念させて頂いたら頂いた事がですね、こんな事を頂いたんですよ。和合ですね。平和の和。合は合楽の合ですね。「和合なければ全てが水の泡も同然」という事を頂いたんです。私はこれをひかえておりました、ここに。こりゃ最近和賀心という事について頂くが、そのー、やっぱりその事についての事なんですけれどね。「和合なければ全てが水の泡も同然」という事は、えー、これはどういう風な事かと。ね。私共が例えば、そのー、日々信心の稽古をさせて頂いておりますけれどもなかなか、あー、和合が出来ない場合もあります、ね。これは特に人間関係の場合なんかは、あー、本当に対立から対立を生じてまいりましてこんがらがった、あー、事になってまいります。けれどもね、私共の心にね、その和合する心が無かって例えばよしおかげを受けてもね、それは水の泡も同然だと。いうならばね、いうならば例えばそういう状態でならよし立派な家を建てても財産を作ってもね、それは結局結果は水の泡の様なものだという事です。ですから私共が日々今信心の稽古をさせて頂いておる、和賀心の稽古をさせて頂いておるそのブレーキにもなる様な御教えだと思いましたですね。私共が和賀心を求めて日々稽古させてもらいよる。それが何かの調子にですね、和合出来ない心っていうものが起こってでも来たら、はぁこんな事しよったら今までの信心すらも水の泡になってしまうぞという様な思いでね、その一つのそういう意味でのブレーキになるような物。そういう所へ丁度中村君ここへ来ましたから、これは、あのー、博之君、これ君の為にね、この御教え頂いた様なものだと。と私は御神米にこの通りの事を書いて渡させて頂きましたらもうこれではっきり腹が決まりましたと。もーうとにかく皆に、親先生を始めもーう親にも心配をかけ人様にも心配かけて周囲にゃ全部心配かけたのでございますから、もーう私がお詫びをして帰る以外にありませんからと言うて、今日はもうはっきり腹が決まったように言うておそらく帰った事だろうと思いますけれども、そう言うて帰りました。ね。でなかったら例えば三年間なら三年間という左官の修行、修行させて頂いたのがですね、なるほど身に付けたと言うてもです、その事ですらが水の泡になるような、信心で言うたら水の泡になるような結果になるんだと。
私共は日々信心の稽古をさせて頂いておってです、ね。例えばその和合する心。例えて言うと人間関係の場合、こちらが和合という事はまぁ拝み合いという事でしょう。ね。例えばこちらが拝んでいるけれども向こうが拝まないというておる場合はです、こちらが向こうの後ろから拝んだら良いです。ね。拝み合いが出来んならです、向こうのいわば後ろの方から拝んだら良いです。どうして私の言う事が、私、いわば真心という物は必ずね向きを変えさせるようなものが必ずあるです。真で成就せん事ない。ですから見事それを分かって、こちらに向きを変えられた時こそが本当の和合という事になりますんですけれどもね。けれども向こうが向こうだからこっちもこっちちゅうたらこちらの心の方がですね、駄目になってしまう。それではね、折角の修行が水の泡になる。私はそれをですね、まぁーせめて一日一日の上にそれを頂きたいと思うですね。今日も朝から良い和の心を求めて喜びの心を求めて和賀心は和賀心はと言うて精進させて頂いて、えー、今日もおかげを頂いたと。ところがそれではない場合もあるかもしれませんね。もう今日ばっかりは辛抱は出来なかった。腹が立って仕方がなかった。和の心どころかそれとは反対の心しか使えなかったとしてもですね、例えばその日その日の、おー、その事を例えば本気でお参りをして明日は失敗をしな、せんという様にね、私刻みあげていくような、あー、信心に本気で取り組まなければいけない。
そういうお取次をさせて頂いておる間にもう四時の御祈念になりましたから、四時の御祈念にかからせて頂いて。皆お参りして来ておる方に私その事を話すんです。丁度北野の秋山さんがお礼に出て来ておりましたら、先生もーう本当にもーう最近のあの人は大体(やっちまはぎ?)宮の陣の教会におかげを頂いたんですね。そしてあそこで天地の大恩を聞かせて頂く時にですね、もーうこれは私は一生この金光様を信心するじゃろうと思うたっちゅう。初めて頂いた時に。今まで天地の大恩やら聞いた事がなかった。それを初めて宮の陣の親先生から天地の大恩を聞かせて頂いた時に、非常に感動したって言う。ね。それ、その感動と同じ様にです、私は感動し続けておる事は天地の親神様の信心をこれは一生かかってする信心だろうと思っておったがです、ね。たまたま合楽に御縁を頂いてもう縁あって二十年になりますでしょう。秋山さんが合楽で信心の稽古をさせて頂きながらです、いわば究めに究めて今日分からせて頂いて丁度一番初めに天地の大恩を聞いた時と同じ感動をです、今日の合楽の和賀心時代、または和賀心学といった様なものに同じ感動を覚えますと言うておりますですね。いわゆる天地金乃神様を相手に拝ませて頂く信心がね、もうこれに極まったという事です。もうこれ以外にないって。金光様の御信心をね、私が和賀心になる事にいわばいよいよ努めていく以外には、その為にこの二十年間和賀心学をあらゆる角度から教えて頂いておったという事が有難い。そしてこの和賀心学に極まった、いやこの和賀心に極まったと心に感じさせて頂く時ですね、ほなもーう何とも言えん感動を覚える、今日は涙をポロポロ流してその感動を自分でここで訴え、訴える、お届けしているのです。そしてですね、いかにその和賀心におかげが伴うかという御礼のお届けをしとります。いつも月末になりますと、おー、お商売の方の支払いが、どこからいくらかっとこう、ここからいくらかっとこう、そしてそれでえー、支払いをさせて頂こうというようなお取次やらお願いやらばっかりさせて頂きよった。そうしたら今度はですね親先生、そういう事を全然感じませんでしたと。どうでも一つ和賀心一つでおかげを頂こうとこう思うた。切り替え得させて頂いた。そういう事に心を決めさせて頂きその事を思うたら感動する程のものを感じておりましたら、もーう今日はもーうそれは先生もーう本当に何ともかんとも言えんお繰り合わせの中にです、金銭があっちこっちからお繰り合わせ頂いて私は向こうに持って行って申しましたと、もーう今日のお金ばかりは本当に私がおかげ頂いてお支払いが出来よると話したらそれをもらう方も信じられないけども、そげな有難かお金のちゅうちからその喜びなさったと言うてですね、あのー言うておられましたがね。もーう確かに親先生この和賀心におかげが伴いますと言うて。
だから皆さんがですね、例えば今日の例えばニュースなんかを聞いておってです、他の例えば今日はなるほど、新日本製鉄ですか。が誕生致しましたり、また高校野球なんかが、あー、ですけれどもね、あのニュースが入ってくるとその野球の好きな人でもです、そのニュースが良いとして聞く位にね、あのー、まぁ大変なそのニュースに皆が聞き耳を立てておるわけですがね。それがね、どういう様な例えばもうそれこそ微妙なあー、社会情勢の中にあってです。それがどういう、うー、まぁいうなら爆発の元になるやら分からん様な問題をそん中に含めております。けれどもそういう中にあってもです、私はどういう中にありましてもです、ね。驚かんですむ。いやそういう中にあって和賀心を持っておかげを頂いていけれる道をね、本気で究める為には、秋山さんの今日のお届けじゃないけれどももう御道の信心はこれに極まったんだと。もうこれを頂く以外にはないのだと。どういう問題の中からでも和賀心を追求していく以外ないんだと、私は本当に感動的なですね、心がそのー頂けれる所までです、この和賀心、なるほど本当に和賀心だと私は、えー、自覚させて頂いての信心の稽古でなからなければならんという風に思います。その和賀心をです、ね。例えばややもすると緩みがちになったり失敗したりするそういう場合にです、和合なければ水の泡も同然と私共が分からせて頂いておりますとですね、そこにどっこいとそこをブレーキ、例えば博之君が何日間かそこでグズグズしたけれども、ね。何日間帰ってきとられる毎日お参りしてきて心が決まった。しかも心から本当に親にも心配をかけた親先生御心配をかけました。ね。お師匠さんにも御心配をかけましたとしてです、お詫びをして帰りますという元気な心がね、出来た。はぁ有難いって、ここから博之君のまた新たな運命が展開されてくる、ね。ここん所でです、もう三年間の事を水の泡にする様な事、そこからね人間の運命が狂い出してくるとですよ。これはね、いわゆる和賀心時代に。その和賀心をいよいよ究めて行こうとする者の一つのブレーキになるような私は御教えだとこう思うんですよね。
ですから本当に私共がね、もうここでね和賀心を破ったらね、もーう今日一日の修行が水の泡になるという様な気持ちで私は本気で信心に取り組まなきゃならんと同時にです、金光様の御信心を頂いてです、天地の御恩徳、天地の大恩を聞かせてもらう時に本当に素晴らしい信心だなぁ。おそらく私はこの信心で一生もう他の神様仏様を拝まんじゃろうとその思うたちゅう。私は本当に、えー、宮の陣の親先生のいわゆる、うーそのー、何と言うですかね、教化力とでも申しましょうか。その教えをね、説かれて秋山さんにそのような感動を与えられたという事は素晴らしい事であった。それがいわば第二の感動。そういう事によって金光様の信心が続けられていくそこからです、そしてその信心が何処にあるかという焦点がはっきり極まった。和賀心にあるんだと。和賀心を究めていく以外はないんだと。そして振り返ってみてこの二十年間の事をです、思うてみる時に二十年間はその和賀心の基本時代であった。その和賀心をですね、私はいよいよ、おー、あらゆる角度から和賀心学を教えて頂いておったんだと。ですから今頂く人が急に和賀心になれまいと思いますと言うて今日は私共の二十年、ね。それを親先生は成り行きを大事にしよう、自然との対決の時にです、そこん所をそれを大事にしていけと教えられたその稽古がですね今初めて実ってそれが和賀心に直結するおかげを頂いておるという事が有難い。ここに極まったと感動しておられました、ね。ですから私共が本当な事が分かってこれだと思う時に感動が湧いてこんはずがないです。何故ってそれは神様の感動なんですもん。ね。二十何年前に宮の陣の教会で天地の親神様の大恩を聞かせてもらった時に、はぁこれはもう私が一生させて頂く信心だろうと思うたらです、その時に感動したその感動がね最近自分の心の中に和賀心を通して感じられると言うております。どうぞ